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新英語教育研究会神奈川支部HP

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読書ノート:森有正『思索と経験~』

森有正『思索と経験をめぐって』講談社学術文庫52 S51 

「霧の朝」『遙かなノートルダム』筑摩書房1967
24-25  言葉には、それぞれ、それが本当の言葉となるための不可欠の条件がある。それを、充すものは、その条件に対応する経験である。ただ現実にはこの条件を最低限にも充していない言葉の使用が横行するのである。経験とは、ある点から見れば、ものと自己との間に起こる障害意識と抵抗との歴史である。そこから出てこない言葉は安易であり、またある意味でわかりやすい。
26-27  ところが多くの戦争文学では、「戦争という異常なことがあったので、おれは異常な体験をえて、こういう本を書くことができた。戦争よ、あってくれてありがとう」と、無意識に絶叫している著者の姿が見えすいているのがほとんどすべてである。どんなに戦争のもたらす悲惨事を体験し、これを克明に描写してもそうである。その悲惨事の描写がしっかりと指導されず、そこから何かすいとっているからである。そこから何かを学んでいるからである。戦争を人間現実とはなすことのできないものとして、本質的には、それを否定できないでいる人は別である。ぼくはそういう人がいわゆる平和主義者より劣悪な人間であるとは、どうしても思われないのである。そうではなくて、戦争を人間に対する悪であり、障害であると公言している連中が、体験の切実さに、読者と共に参ってしまって、悪や障害から結局何かを吸いとり、体験が増大したのを(体験はどんなアホウの中でも機械的に増大する)自己の経験が深まったのととりちがえているのである。中には戦争のおかげで平和主義者になれたような人まである。ぼくはそういう体験主義はいっさい信用しないのである。パスカルが、「人間は考える葦である」と言った時、そういう体験主義を根本的に否定しているのである。

27 「変貌」『旅の空の下で』筑摩書房1969
41 人間は他人がなしとげた結果から出発することはできない。照応があるだけである。これは文化、思想に関してもあてはまる。たしかに先人の築いたその上に築き続けるということは当然である。しかし、その時、その継続の内容は、ただ先人の達したところを、その外面的成果にひかれて、そのままうけ取るということではない。そういうことはできもしないし、できたようにみえたら必ず虚偽である。数量的見地から純粋に外面的にものを抽象し、分析し、綜合する自然科学ではもちろん事情がちがう。しかしそこでも、頭からすぐ他人の業績の上に築き続けることはできないであろう。たとえ最小限ではあっても、他人がたどった跡をたどり直す必要があるであろう。教育の大きい必然性と目的の一つがそこにある。

64  つい昨日ある若いインテリの女性と話し合った。かの女はフランスで最高の教育をうけ、学問のみならずあらゆる意味で高い教養をもっているのであるが、数年を日本で過ごしたことがある。かの女の話を要約すると、日本人は豊かな感受性と優れた知性をもっているが、一つの状態に停止する傾向がある、というのである。もちろんこの停止は単なる停滞ということではない、日本人が一つの状態に停止することを喜び、それ自体の中に生きることの意味を見出していることを意味する。すなわちかの女によるならば、そういう状態、それは自己観照性とでも呼ぶべきものであるが、そういう状態を自己の中にも、他人の中にも見出すことを喜び、したがってそこに停止する傾向である。単に否定的な停滞とちがって、それ自体が有意義になってくる。自分を自分で、また同じ意味で他人を眺めて満足する傾向である。 かの女はまた、日本人は日記をつけることが好きであり、日記をつけることによって、その日、その日をながめて終る、と言った。私が経験と実存との乖離という言葉で言おうとしていることのかなりの部分はこういうことを意味しているのである。


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